夜明けが訪れた。
緩やかな風が暗闇の荒野に流れ、ゆるりと冴えていた目を開ける。
窓の外に広がる青藍の空。
輝きを失いつつある星々が落ちて、陽が昇るほんの数時間前の青と赤のグラデーションの世界。
女神エリュシオンが、人間と守り抜いたホワイトランドの大地は目を覚ます。
真っ白なシーツの中で、明るい焔色の瞳と、クセの少ない肩まで伸ばした赤髪が揺れる。
昨夜は一睡も出来なかった少年、レイズウェル・ルークは寝不足で痙攣する瞼を押さえる。
「あぁ……昨夜も死ねなかった」
今日もまた、憂鬱な一日が始まるのだ。
レイズウェルは疲れ切った顔で瞼を閉じると、指先を軽く振り小さな炎を灯す。
赤く揺れる火の魔法で辺りを照らしながら壁に掛けてある時計に目をやると、まだ夜中と言ってもいい時間だった。
気が済んだと指先の炎を消せば、どっと疲れが押し寄せ、無意識に深い息を吐き出す。
この世界での魔法は、大昔の亜人戦争で女神エリュシオンが人間に与えたものであり、限られた貴族家に受け継がれる特別な術のこと。
貴族であれば誰でも魔法が使える世界であり、それが当たり前のことだ。
けれど、ホワイトランドの東を治める大貴族のレイズウェルは、七歳になっても魔法の才能に恵まれず、体も虚弱。
ルーク家の仕事もこなせない、はっきり言って役立たずだった。
ほんの少し魔法を使っただけで体中の筋肉が強張り、脈は乱れ息が上がる。
何度、この非力な体を恨んだことだろう。
それでも家族の愛情に必死に食らいつこうとし、知識をため込んだおかげで年の割にはしっかりした考えを持っていた。
レイズウェルは、寝ていたベッドから起き上がると、窓に手をやり藍色の空を見上げた。
空の向こうの朱色を眺めていた目線を落とせば、窓の外に広がるセイランの花畑の傍で何かが動いた。
夜の冷え切った土に転がる丸い塊が見える。
暗闇の中でもソレの手足はモゾリと動いており、レイズウェルの部屋の近くの木に繋いだ鉄鎖が耳障りな金属音を立てる。
ベッドから出ると、眠れなかった元凶でもあるソレを睨みつけ、冷めた目で見下ろしながら口を開く。
「……耳障りだ。やめろ」
レイズウェルがそう言うと、聞こえたのか丸い塊は動きを止める。
ソレがゆっくりと顔を上げると、暗闇の中に輪郭が浮かび上がる。
顔が隠れてしまうくらいに長く手入れされていない髪と、ゾッとするような感情のない深い海色の瞳がレイズウェルを捉える。
男の子とも女の子ともつかない容姿のソレの名は、リズウェル。
昨日の朝に、ルーク家の当主である父親から紹介された厄介ものだ。
何の説明もないまま突然現れたリズウェルは、人ではないモノとして扱われ薄着で素足のまま、館の外で動物のように飼われていた。
見たところ、年はレイズウェルと同じくらいだが、無表情で何も喋らないので何を考えているのかわからない。
今だって、犬のように唸り鉄鎖を引きちぎろうとしている。庭園の大きな木と、リズウェルの首輪が繋がっているのだ。
一晩中、部屋の前で金属音を鳴らされたレイズウェルはうんざりしていた。
まるで動物のようにして扱われているこの子を、父親は「兵器」と言った。
感情のない兵器のように役に立つことを求められる、哀れな人形がそこにはいた。
正直、レイズウェルは自分と顔も似ていて、どこか作り物のようなリズウェルが不気味だと思っている。
それでも、当主の命令には逆らえないし、逆らう気もない。
体が弱く、少し走れば熱が出て寝込んでしまうレイズウェルは、誰からも期待されることがなく、愛されることもない。
だから、レイズウェル・ルークは自分に期待しないし、他人にも期待しない。
ただ、自分に与えられた運命の中で無気力に漂って終わるだけだ。
「気持ち悪いやつ……」
リズウェルをから視線を外したレイズウェルは、ボソリと呟くと再びベッドの中へ意識を潜り込ませた。
鉄鎖を引く音は、外が明るくなってからも止まなかった。
――
ホワイトランドの四大貴族、東のルークは世界の裏側を生きる一族であり、仕事内容は人間や亜人を問わずの暗殺や諜報だ。
体力だけではなく、知力も求められる仕事であり、依頼主の素性は様々なもの。
一日の仕事を割り振られるミーティングを兼ねた朝食では、今日も名前を呼ばれる事はなかった。
居心地が悪い朝の挨拶を終わらせたレイズウェルは、食堂を出ると深い息を吐き出した。
今日もひとりの兄を除いて、視線や言葉も交わさないお馴染みの一日の始まりだ。
長く狭い冷たい石造りの廊下を進む。
薄暗く血と錆びた鉄の臭いがする扉を通り過ぎ足を止めると、黒く汚れた衣類が乱雑に折り重なっていた。
「……さて、仕事するか」
レイズウェルはそう呟きながら重なった衣類を拾い上げ、広い庭の端にある井戸へと持っていく。
石を積んで囲った井戸の滑車を使い、ロープに繋がったバケツで地下水を汲む。
力も必要で体への負担も大きく、面倒くさいと心の中でぼやきながら兄達の仕事服を洗い始める。
レイズウェルの仕事は戦うこと以外の家事だった。
一年を通して気温が高く、砂と岩しかない荒れた大地に住まうルークには、亜人奴隷がいなければ使用人もいない。
恐ろしい噂が後を絶たないルークに仕えようと思う者がいないというのもあるが、仕事の機密保持の為でもあるからだ。
本当は、衛生的にもこんなものを洗って使ったりはしないのはわかっていた。
けれど、仕事が出来ないレイズウェルへの嫌がらせに兄姉が命令しているのだ。
無駄なのだと全部わかっていても逆らう気力はない。
「クソ……取れねぇし、臭いもきついし……」
苛立ちながら返り血で汚れた服を擦って洗っていると、水が飛び散って服に赤い染みがついてしまった。
レイズウェルはますます苛立ち、もうこんなもの捨ててしまおうかと思っていた時、すぐ傍で金属音がし振り返った。
「……! あぁ?」
レイズウェルは、気配がまったくしなかった事に驚くも、相手が誰なのかわかると舌打ちをする。
そこには、いつの間に近付いてきたのか、幽霊のように佇むリズウェルがいた。
どこかでぶつけたのか、青色の髪は一部だけ赤黒く染まっており、土と泥にまみれ汚れた服を着ていた。
何か言葉をかけるでもなく、長い前髪の隙間から不気味な二つの目玉が覗き込む。
昨日の朝からの時間で、どこでこんなに汚してきたのだろうか……レイズウェルは一瞥するだけで元の作業に戻る。
すると、リズウェルはレイズウェルが持っていたバケツに近付き、中に入っていた水を覗き込んだ。
「な、なんだよ……?」
レイズウェルは、近付いただけで鼻をつく悪臭に思わず後ずさる。生乾きの血の臭いがしていた。
リズウェルは、そんなレイズウェルに反応せず、ふらふらと井戸の中を覗き込もうと身を乗り出し――……。
「危ねぇ!」
頭から落ちる間際、レイズウェルは首輪に繋がる鎖を思い切り引っ張った。
ビン! と鎖が伸びる。
思いもよらなかった事に、リズウェルは後ろに転んでしまい、何が起きたか理解できず丸い瞳を大きく見開いていた。
「お前っ……落ちて死ぬ気か……?」
そう言ったレイズウェルの額に冷や汗が浮かぶ。心臓が早鐘を打ち、無意識に鎖を強く握った。
掘り抜き井戸の底は暗く、どうなっているのかわからない。
だが、落ちれば間違いなく戻っては来られないだろう。
「……うぅ」
鎖を引かれて転んだ拍子に頭をかばい、うつ伏せになったリズウェルの乾いた唇から出た声は枯れていた。
大きな目には涙が浮かび、水玉がゆらゆらと揺れている。
「うわっ……汚ねぇな」
思わずそう言ってしまったレイズウェルは、鎖を放すと少し考え、洗濯の仕事を置いてその場を離れた。
しばらくして、戻ってきた彼の手には透明なグラスが握られていた。
どうせ飲むなら、とグラスのふちギリギリまで注いできたのは、透明で清潔な飲料水だ。
「……ほら、喉乾いてたのか? ついでにこれもやる」
水と一緒に食堂から持って来たのは、籠の中に残っていた一口サイズの小さなパン。
ふたつを、転がっているあの子へ差し出す。
太陽の光を反射して輝くそれらに気付いたリズウェルは、勢いよく起き上がると動物のようにパンの匂いを嗅ぎ、ぱくりと口に頬張る。
咀嚼をしながら一旦固まり、味わうようにまた咀嚼して飲み込んだ。
次に、グラスに口を突っ込むようにして水を飲む。
ほとんど零れてしまったが、本人は気にしていない。
レイズウェルが臭いと行儀の悪さに顔をしかめていると、リズウェルはグラスを珍しそうに眺め、初めて見るものに目を輝かせていた。
その様子を見ていると、なんだかペットのエサやりをしているようだ。
レイズウェルは、ほんの少し優越感に浸りながら、あの子を見下ろしていた。
この家で自分よりも酷い扱いを受けているリズウェルに、何故だか安心しているのだ。
「それやるから、近付くな。お前、汚いんだよ」
冷たくそう言うと、レイズウェルは興味がなさそうにまた洗濯の仕事に戻る。
バケツに繋いだロープを引いて井戸の水を汲み上げ、仕上げをすませていく。
リズウェルはグラスを握ったまま、自分の存在を無視しているレイズウェルを無言でジッと見ていた。
