第2話『黄昏の落星②』

白い雲は緩やかに流れ、荒野の乾いた風は土を巻き上げて舞う。
 木の枝に張ったロープを結び、レイズウェルが洗った衣類を干し終えた時、よく知る声が聞こえる。

 
「レイ」

レイズウェルをそう呼ぶのは、一番年上の兄であるエリオだ。
 穏やかで物腰柔らかなエリオは、家族の中でも冷たくされているレイズウェルにとって、唯一優しくしてくれる存在でもある。

家の中で二番目の実力を持つエリオは、末弟まっていを不憫に思い、いつもレイズウェルを気にかけていた。
 肩の下まである長い赤髪をうなじで束ねたエリオは優しく微笑む。

 
「頑張るのはいいが、無理はしなくてもいい」

彼はレイズウェルの手元を見てそう言った。
 レイズウェル自身も、そんなエリオにだけは心を開いていた。

 
「はい、ありがとうございます」

そう答えるとエリオはまた頷き返し、グラスを眺めているリズウェルの傍に寄る。
 何も言わず、リズウェルの髪のどす黒い汚れと、破れたボロボロの服を見て眉を顰めた。

 
「……酷い傷だっただろうに。フラクタは手厳しいな」

ぽつりとそう呟くと、リズウェルの前髪を手で持ち上げた。
 視線は上げないまま、濁った眼をしていたリズウェルだが、レイズウェルが視界に入ると晴れた日のように顔を明るくした。

エリオはそんなリズウェルに気付き、目を伏せ口を開く。

 
「……レイ、お前にいい事を教えてあげよう。いいね?」

ゆっくりと語りかけるエリオは、リズウェルを見つめたまま続ける。

 
「これは、感情を持たない人形として作られた存在だ。深く関わってはいけないよ」
「……人形?」

聞き返すレイズウェル。何かを思い出したのか、不安げにグラスを両手で握りしめるリズウェル。
 エリオは、兵器であるリズウェルの前髪を持ち上げていた手を放す。
 
「そう。これは何も感じない、何も考えない命令に従うだけの存在として生かされている。感受性の強いお前は、共にいれば必ず後悔する日が来るからね」
 
 静かにそう言い終えたエリオに、レイズウェルは口の端を吊り上げて返す。

 
「大丈夫です。俺はこんな気持ち悪いやつ、大嫌いなんで」

ありったけの嫌悪の感情を込めてそう言うと、エリオは少し困ったように微笑んでいた。

 ――――
 
 
 その夜、夕食を終え自室に戻っていたレイズウェルは、いつものように机で日記を書くとペンを置いた。
 
 家族と離れた屋敷の奥にあるここが、彼が安心できる居場所だった。
 眠る時間だ。指先を振り、明かり代わりに呼び出していた炎を弱める。

 
「このまま目が覚めなきゃいいのにな……と」

眠る前のいつもの呟きを落とし、窓辺にあるベッドへ入ろうとした所で、ふと外を見る。
 今夜は満月で、光を浴びた金色のセイランの花が風に揺れる。

そのわずかな月光の下で、井戸のある方へ進む影と何かを引きずる音が聞こえた。

喉が渇いたのか……聞き覚えのある金属音は、あの子のものだろう。
レイズウェルは、無視して眠ろうと横になり目を閉じたところで思い出す。
 
 いつも井戸を使った後は木の板で塞いでいるはずだが、今日に限ってはそのまま戻って来てしまっていた。
 もし、水を飲もうと身を乗り出したあの子が井戸に落ちてしまったら……?
 
「いや、そんなわけ……」

 レイズウェルが、自分の中に浮かんだ最悪な想像を振り払おうとした時、短い悲鳴の後に鉄鎖を引きずる音が消えた。
 気になって窓の外を見てみれば、部屋の近くに繋がれていたはずのリズウェルの鎖が凍り付き、切断されていた。
 
 首輪が付いているあの子の姿はない。

 
「……あぁ、もうっ!」
 
 そこからは考えるよりも先に体が動いてしまっていた。
 レイズウェルは窓を開けると庭に飛び出した。
 明かり代わりの炎を頼りに、急いで音のした方へと向かい、息を切らせたまま井戸に手をかけた。

 
「どうなった……! まさか本当に落ちたのか?」

真っ暗闇の井戸の底を炎で照らすも、奥の方までは見えない。
 静まり返った井戸内には、レイズウェルの声が反響しているだけだった。
 レイズウェルの脳裏を苦い想像が走る。

あの子は兵器と呼ばれていた。エリオに言われた言葉を思い出す。
 リズウェルは、感情を持たない人形として作られたのだと言っていた。

作られたというのは、どういう意味だろうか。
 レイズウェルにはわからないが、仕事を進めていくうえで必要な存在なのだろう。
 
 だとしたら、蓋を閉め忘れた井戸に落ちて本当に死んだとしたら、間違いなくレイズウェルが疑われてしまう。いや、責任を取らされる為の制裁は免れない。

そうなれば、今よりも厳しい目にあうだろう。

 
「……終わった……俺に、どうしろっていうんだよ……」

これから起こる恐怖に言葉が出ず、レイズウェルは井戸の前に立ち尽くしていた。

そうしていると、おもむろに井戸の中にバケツが投げ入れられた。
 投げ方が悪かったのか、ボコンとバケツの当たる音が響く。

 
「は……?」

特徴的な臭いに顔をしかめたレイズウェルは、いつの間にか隣で水を汲み上げようとしている存在に気付き、別の意味で言葉を失っていた。

同じ背丈の相手は無表情でレイズウェルを見ると、使い方を見せつけるようにロープを引いた。
 バケツには半分ほどの水が入っており、月光を反射した透明なグラスですくう。

 
「お前……なんでここにいるんだ……?」
「……?」

たしか井戸に落ちたはずのリズウェルは、何も言わず水が入ったグラスを差し出す。
 レイズウェルは、状況が理解できずに井戸とリズウェルを交互に見て瞬きをした。
 
「もしかして、さっきの音は鎖をちぎった時の……?」
「?」
 
 訊ねてみても、リズウェルは言葉の意味が分かっていないようで微動だにしない。
 これはこれで気味が悪いが、井戸には何かが落ちた跡はない。
 それよりも、質問に一言も返さない事に苛立ちが増す。

 
「やめろ! こんなもん飲めるわけねぇだろ!」
「う? んん……ん!」

怒鳴り返されたことに驚いていたリズウェルだが、思いついたというように足元の草をむしり、グラスの中にトッピングする。
 何の変哲もない雑草水の完成だ。それを飲めと言わんばかりに突き出してくる。

 
「そういうコトじゃねぇよ!」

レイズウェルは、コミュニケーションがほとんど取れない事に限界を感じ、リズウェルの手を右腕で払った。
 地面にグラスが転がり、中身がぶちまけられていく。

一瞬、やりすぎたと思った刹那、リズウェルの前髪の間から覗く目玉と視線が合う。

 
「なんだよ!」

感情のこもっていない不気味な迫力に怯み、後ずさったレイズウェルは、自分でも気付かないうちに井戸へと向かってしまっていた。
 
 足元に何かが引っかかったと思った瞬間――。
 レイズウェルの背後に、水底から手招きをする無数の白い腕が這い出て来た。
 そのひとつが彼の腕を掴み、井戸の中へと引きずり込もうと仲間に誘う。

 
「……!」

恐怖で声が出ないレイズウェルは、抵抗する事も出来ずに井戸の中へと連れていかれようとしていた。
 呪いを蓄えた魔物は、夜を彷徨い水辺に潜んでいる、そう本に書いてあったことを思い出す。
 
 両親と手を繋いで歩いた記憶もなく、誰からも愛されることのない手は彷徨う。
 まさか、魔物にやられて終わるのか……せめて死に方は選びたかったな、とレイズウェルは目を固く閉じた。

――その時、一瞬の冷気が鼻先を掠めた。

 
「ア? アー、ん……」

聞こえてきたのは、発音を確かめるようなレイズウェルとよく似た声と、鳥肌が立つほど恐ろしい死の断末魔。

レイズウェルがゆっくりと目を開くと、顔の真横に氷で作られた茨が見えていた。
 茨は井戸の中へと伸びており、中に潜んでいた魔物が無残な姿で串刺しになっている。

それどころか井戸水は凍り付いており、一体残らず始末されていた。
 茫然として体に力が入らないレイズウェルの前に立っていたのは、氷の茨を召喚したリズウェルだった。
 
 足元に浮かぶ青い魔法陣がその証拠だ。
 茨を操っていた左腕を下ろしたリズウェルは、井戸の前で座り込んでいるレイズウェルの前に来ると、何かを少し考えていたが、思い出したように空いた右手を差し出してきた。

 
「おまエ、落チて死ぬ気か?」

この言葉は、昼間にここでレイズウェルがリズウェルにかけたものと全く同じ。
 発音は少しおかしいけれど、それでも初めて喋ったのだ。

 
「は? は……? え?」

 レイズウェルは、混乱しそうになる頭を整理する。
 井戸に潜んでいた魔物に襲われた、リズウェルに助けてもらった。
 助けるということは、こちらに対して敵意はない? ということは……。
 
 鉄鎖を引きちぎったこと以外は、この子はレイズウェルの喉を潤す為に、昼間の見まねで水を汲んでくれただけ。
 謎のトッピングはよくわからないが、この様子だと毒を盛るつもりもないのだろう。
 
「ん!」
 
 気を取り直して、と言わんばかりに残っていたバケツの水をひび割れたグラスで汲み、もう一度差し出してきたリズウェル。
 本人はきっと、水をもらったお返しをしているつもりなのだろう。

 
「あ、いや……さっきは助かった」
 
 思わず受け取ってしまったレイズウェルは、居心地が悪いながらも礼儀は通す。
 無表情で無反応のリズウェルは幽霊のような佇まいは変わらず。

ただ、途中で引きちぎられた鎖がこの子の本当の意志なのだろう。
 
 はっきり言って、リズウェルが気味が悪いのは変わらない。
 魔法の詠唱なしであれほどの氷を操る事や血で汚れている事といい、言葉が通じない事もそうだが、得体が知れないことに変わりはない。
 
 けれど、レイズウェルにもらったグラスだけは大切そうにしていた。
 
 そんなリズウェルを初めて正面から見つめたレイズウェルは、グラスの中の水を揺らすと、こみあげてきた笑いをこらえるように唇を噛んだ。
 
 何か、今まで感じたことのない、くすぐったいような不思議な気持ちだった。
 親兄姉おやきょうだいからもほとんど向けられることのなかった、純粋な優しさに目頭が熱くなってしまう。
 
「お前……!」

ふはっ! と声を上げたレイズウェルは、頑なに拒んでいた態度を取り繕う事も忘れて笑う。
 何がおかしいのかは自分でもわからない。

「?」

リズウェルは、水を飲もうとしないレイズウェルを気にして様子を伺う。
 そんな姿に、レイズウェルはひとしきり笑うと、目じりに浮かんだ涙を指で拭ってグラスを掲げた。
 
 月光に照らされて輝くセイランの花を、ひびの入ったグラスの向こうに映し、新しい人生の始まりを喜ぶように。
 何故だか心は踊り、今までで一番すっきりしていた。

 
「いらん。捨てるわ」
 
 グラスを下ろしたレイズウェルは、ニヤリと緩む頬を堪えながら真剣な顔をする。
 そして一拍置き、ゆるゆると首を振り口を開いた。
 
「……これ、そもそも飲み水じゃねぇから飲めねぇんだわ……」

 驚いて固まっているリズウェルに対して、やっと出て来た言葉でそう教えてあげたのだった。

そんな話をする二人を物陰から見つめる姿がひとつ。

「……」
 
 魔物の気配に気付いて駆け付けたエリオは、胸の中の不安が現実となってしまったことに深い息を吐き出し、その場を後にした。