第29話『追憶』

 ジーク達に助けられたレイズウェルは、現実と思い出の記憶が混濁する意識の中で夢を見ていた。

 子供の頃に見ていた鈍色の世界に色が灯ったあの時、何があっても叶えたいと決めた約束が何度も頭の中で繰り返し再生される。

 音もない常闇へ続く冷たい水の中を、ぼんやりと光る水面を眺めながら沈んでいく。思い出すのは、初めて会った時のことだ。

 女神エリュシオンを信仰するホワイトランドの四つに分かれた地域の一つ。

 荒野に囲まれた東の大地を治めるルーク家の序列第四位、レイズウェル・ルークは今日も死にたかった。

 人の運命というものは、必ずしも平等とはいかない。

 思い返せば、生まれつき病弱で一日のほとんど寝たきりだったレイズウェルは、兄姉と会う事もあまりない。

 また、彼を生んですぐに母親が亡くなってしまい、妻を奪った実の子を憎んだ父親は、レイズウェルの顔を見ようともしなかった。

 少し走れば熱が出てしまい、魔法を使う才能にも恵まれない自分は、この先ずっと誰からも関心を持たれず、愛されることもないのだと。

 この年で七歳になる少年、レイズウェルは気付いていた。

 ただ、四大貴族の子として生まれたこと自体に価値があるだけで、家の仕事を継ぐことも出来ない彼に残されたのは、使用人のように家族の世話をし、年齢が上がれば他の貴族の家に婿として取引の材料にされる生涯だけ。

 それは、立場や横のつながりを大切にする貴族の現実であり、本人の意志など関係なく望んだ未来もない人生。

 東のルークは世界の裏側を生きる一族であり、仕事内容は人間や亜人を問わず暗殺や諜報が主だ。

 その為、彼らを慕う領民や仕える亜人奴隷はおらず、一年を通して気温が高く砂と岩しかない荒れた大地には、ルーク家の屋敷がぽつんとあるだけとなっている。

 普段からほとんど人の気配がしないこの屋敷の一番奥にある狭い部屋が、レイズウェルの暮らす世界であり、ベッドや最低限の教養が書かれた本以外は何もない。

 この部屋の窓から見える庭園の景色が幼い彼の全てだった。

「……これもくだらない」

 読んでいた分厚い本を閉じたレイズウェルは、あくび交じりにそう呟き、髪を束ねていた青いリボンを解いた。

 彼の明るい焔色の瞳と、クセのない肩まで伸ばした赤髪はルークの一族の特徴だ。

 誰からも期待されることがなく、愛されることもない。ただ、こうして生きているだけの生活を続けるレイズウェルにとって、家は牢獄と変わらなかった。

 レイズウェルは何も出来ない自分にも、何もしてくれない他人にも期待をしない。

 誰かに期待した分だけ裏切られた時が辛いのを知っているから。

 ここから抜け出すことも出来ず、家の役に立つ為だけに生かされているのなら、いっそ死んでしまえた方がどんなに楽だろうか。

 かといって、自分で終わらせる勇気もない。

そんな中途半端な自分も嫌いだった。

 ある日の事だ。

 いつものように朝を迎え、身支度を整えたレイズウェルは父親に呼び出され食堂へ向かっていた。

 朝食を一緒に摂るように、と言われたのだが、自分を憎む父親の視界に入らないよう、目立たないように生きていたレイズウェルにとって苦痛と恐怖でしかないが、当主の命令は絶対だ。

 しんと静まり返った屋敷には華美な装飾はなく、花瓶に生けられたオレンジ色の花が頭を垂れていた。

 長い廊下の角を曲がったところで、食堂に辿り着いたレイズウェルは深呼吸をし、緊張しながら足を踏み出す。

「……おはよう……ございます」

 父親はレイズウェルを見ると、あからさまに汚いものを見るかのように目を細め、先に着いていた兄姉は呆れたというように薄ら笑いを浮かべる。

 レイズウェルはこの目が苦手だ。見られただけで得体の知れない怪物に飲み込まれそうな気がするから。

「レイ、よく眠れたのか? 寝ぐせがついている」

 ただひとり、萎縮してしまったレイズウェルを席に促したのは、兄姉の中で一番年上のエリオだ。

 年の離れた兄であるエリオは、家族の中でも冷たくされているレイズウェルにとって、唯一優しかった存在でもある。

「エリオ兄さん、その……遅れてしまいまして……」

「仕方ないさ、お前の部屋はここから遠いからね。せっかく用意した食事が冷める、座りなさい」

 そう言って、優しく微笑むエリオ。

 ルークの一族の中で父の次に力を持っている長兄は、全員分の食事を配膳し終わると、父親のグラスに飲み物を注いでいく。

 血のような色のワインで舌を湿らせた父、バリス・ルークはテーブルの端に座るレイズウェルを指して口を開いた。

「レイズウェル、病弱で魔力もない恥さらしが……。我が血を継いでいなければ、お前など処分していたわ」

 向けられる視線や放たれる言葉は、まるで鋭い槍で胸を突かれたように痛く苦しい。

「……申し訳ありません……」

 何も言えず、視線を落とすレイズウェルの手元のスープには、今にも泣きそうで情けない顔をした自分が映っていた。こんな自分も嫌いだった。

「フラクタ、あれを連れてこい」

「はい、父上」

 父、バリスがそう言うと兄であるフラクタは席を立ち、部屋の外に置いていた何かを連れて来る。

 重量のある金属が擦れる音と、ぺたぺたと軽い足音がし、食堂に戻って来たフラクタの手には、捕らえた魔物を繋いでおく為の太い鉄の鎖が握られていた。

「こちらに……」

 そう言ったフラクタが強引に鎖を引くと、引きずられるようにして、『その子』は姿を現した。

  黒いシャツにブラウンのベストを着た『その子』は、床に両手をつきながらゆっくりと立ち上がると、不安そうに辺りを見回す。

 フラクタは、落ち着きなく辺りを見ている『その子』の首輪の鎖を引き、レイズウェルの前に突き出した。

 顔が隠れてしまうくらいに長く手入れされていない青い髪と、感情がない人形のような海色の瞳がレイズウェルを見ていた。

 それが、リズとの出会いだ。

 最初はお互いに何も知らないところから始まった仲だ。

当然、馴染めるはずもない。

 仕事をこなす兵器として生まれたリズは、兄や父親に厳しくされ、食べる物も与えられず痩せ細っていく。

 兄姉に失敗作だと罵られ、暴力を受け屋敷の外で家畜のように扱われていた姿を、レイズウェルは部屋の窓から見ていた。

 ただの気まぐれで食事を分けてあげたのがきっかけで、リズはレイズウェルの後をついて来るようになった。

 面倒だと思いながらも何故か放っておけず、レイズウェルは兄姉や父の目を盗んではリズの様子を見に行く日々が続く。

 物心ついてからずっと死にたいと思っていたレイズウェルは、いつしかリズといる時だけは、自分にも価値があるのだと思えていた。

 そして、リズもまたレイズウェルと過ごす中で少しずつ人間性を手に入れていく。

 初めは喜び、怒り、哀しみや楽しみも知って成長していき、いつしか二人は本当の片割れのように過ごした。

 けれど運命は残酷で、貴族が子供でいられる時間は短い。

 レイズウェルと出会い、感情を知ってしまったリズは、暗殺者として育てられたにもかかわらず、人を手にかける事が出来なくなってしまっていた。

 ルークの家では、仕事が出来ない者は価値がないとみなされる。

 それが、作られた存在であるモノならばなおさらだ。

 リズの廃棄処分が決まるのは時間の問題だった。

 人を殺める事が出来なければリズに生きる価値はない。

 悩み苦しむ片割れを前に、本当のルークの子というだけで生かされていたレイズウェルは、初めて自分の置かれた境遇が恵まれていたのだと思い知る。

 だが、苦しんだのはレイズウェルも同じだ。

 大嫌いな父に頭を下げ、リズを自分の管理下に置いた。

 廃棄処分を免れる為に、泣いて嫌がるリズを押さえつけ、全ての記憶と意志を奪う薬を飲ませた。

 その時にレイズウェルが付いた嘘を、リズは未だに信じているのだろうか。

 陽が沈む部屋で薬を飲ませ、眠るように自分を失っていくリズの冷たい手を握っていたレイズウェルは、涙でぐしゃぐしゃに濡れた顔を歪ませ無力な自分を呪った。

 例え、リズが自分のことをわからなくなっても、ずっと傍にいようと……。

 いつかきっと、この子が記憶を取り戻し、自由に生きたいと願ったのなら今度こそ叶えてあげよう。

 自由になるその時まで生きて、リズを守れるのなら、どんな人間にでもなってやるのだと誓った。

 この日、七歳だったレイズウェルは、投げやりな生涯を生きていた自分を捨てた。何があっても必ず生き延びてみせるのだと、見た目よりもずっと幼い片割れに誓う。

 あの頃、子供だった二人に自由はなかった。

 他人を信じたりすれば付け入られてしまい、弱ければ利用されてしまう。

 互いを犠牲にしてでも戦わなければ、強くなければ、この家では生きてはいけなかったのだ。

 レイズウェルは生まれて初めて出会った友人であり大切な片割れに、最後の別れ際でひとつの約束をした。

 あれほど死にたいと願っていたレイズウェル・ルークが最後に選んだのは、自分よがりな未来じゃない。

 その言葉に頷いたリズの涙が、光を含んだ雨粒のように綺麗で忘れられなかった。

 これが、レイズウェルの心の底でずっと眠っていた大切な記憶だ。

(もういい、終わったんだ……)

 全部が間に合わなかったのだと、水面に上る泡を眺めるレイズウェルは、過去の自分に言い聞かせるように目を閉じた。

 その時、意識の水底に沈みかけたレイズウェルの体に熱と鼓動が宿り、水面の彼方から声が聞こえた。

 はっきりとは聞き取れない声は次第に大きくなっていき、眠ろうとしたレイズウェルの名を呼ぶ。

 ドクン、と強く鼓動する心臓が証明するのは生の炎、持ち主にあの日の約束を果たせと呼びかける。

 その声に反応し、意識は鮮明になっていく。

「レイズウェル! 蘇りたまえーっ!」

「……!」

 それに応えるように瞼を上げれば、埃かぶった天井が目に入った。

 懐かしい夢から覚めたレイズウェルの意識を引き上げたのは、思わぬ相手の声だった。

「ここ、は……?」

 ハッと、意識を取り戻したレイズウェルは声の方へ目をやる。

 誰が自分を呼び戻してくれたのか……期待と戸惑いを帯びた視線は、次の瞬間に汚物を見たかのように濁ってしまう。

「よかった……! 君、ずっと目を覚まさないから心配してたんだぞ……」

 そう言ってベッドに寝ているレイズウェルの視界に無理やり入ってきたジークは……。

 なぜか大量の汗を流し、裸に赤いフンドシ一枚の姿で仁王立ちしていたのだった。