第36話『夜の片隅で星は踊る』

 夜の長い廊下を走り、息を切らせたレイズが出て行ったのは離れの小屋の前にある庭園。
 今夜の月に照らされて黄金色に輝くセイランの花は、ゆらゆらと風に揺れている。

 レイズは、心臓の悲鳴を感じながら花をかき分け奥へと向かう。背後には花を剣で斬り捨てながら追ってくるリズが来ていた。
 ちょうどセイランの花畑の中央で、レイズは立ち止まり振り返る。
 
 ここまで来るのに無理をしていた体は軋みを上げ、咳に混じって鉄の味がした。
 それでもレイズは俯かない。自分自身でけじめをつけるため……何より手遅れになってしまった片割れを救う為に。

「お前、どれだけ薬を飲んだ……?」
「……」

 レイズは、少しでも息を整える時間を稼ぐ為に話を振った。
 わかっていたが、それに対する答えは返ってこない。
 リズに飲ませていたあの薬は、少量でも強力であり依存性が高い。
 管理者だった時のレイズは少しずつ量を調整し、リズの人格が消えないギリギリのところを保っていた。

 だが、それも出来なくなった今、フラクタの管理下に置かれていたリズは言われるままに薬を飲まされ続け、正気に戻ってはまた繰り返していたのだろう。
 いま、目の前にいるのは、誰かの命令がなければ動けない『哀れな人形になってしまった』片割れだった。

 こうなればもう元に戻すことは出来ない。仮に解毒剤が出来たとしても、この毒に対抗できる成分があるとは思えない。
 
 だからレイズは部屋で薬の空き瓶を見た時に覚悟を決めていた。深呼吸をし、魔銃を握る右手に力を込める。
 リズは初めて見る魔銃を警戒しているのか動かない。

「なぁ、リズ。俺はお前の兄貴だ。だからやりたくない事もやらないとならない」

 こちらを見つめる冷たい深淵にレイズは語り掛ける。
 例え、助けられずに、ここで相打ちになってしまったとしても――。
 約束した『海』が見られなかったとしても。

 もう二度と、共に生きることが出来なくなってしまっても……。

「このまま、お前がお前として生きられないのなら、死んでいるのと変わらねぇよな……」
 
 帰る場所を失った魂へ向ける言葉は、静かに夜の音に消えていく。
 ゆっくりと右腕を上げたレイズは、自分自身よりも大切だった片割れの胸へと銃口を向けた。
 
 そうして、一度だけ痛みをこらえるように顔をこわばらせ、無理に笑ってみせた。
 
「もう大丈夫だ、きっちり殺してやるよ」

 そう言って、引き金に指をかける。
 チャンスは一度きり、魔銃の性質が知られてしまえば勝ち目はない。
 躊躇いは死だ。レイズが引き金を引こうとした時、懐かしい声が聞こえた。

「れい……?」
 
 自分を見るリズの瞳が光を取り戻し、まるで夢から覚めたばかりのような掠れた声でレイズを呼んだ。

「お前……俺がわかるのか……?」
 
 希望の欠片が頭によぎり、レイズは思わず引き金から指を放してしまった。
 その一瞬の迷いが命取りとなる。
 刹那、視界の端に黒い剣身が映った。

「!」
 
 反射的に後ろに下がったレイズの眼球を狙った斬撃は額を掠り、薄く切れた傷から血が流れ伝う。
 後ろによろけてしまいながらもすぐに体勢を整え、血が目に入らないように服の袖で拭い取る。
 
「お前……!」

 何とか躱したレイズは、信じられないとリズを睨む。
 相手を騙す事は暗殺者の得意とするところで、よく訓練された暗殺者であるほど嘘が上手い。
 まさか今、よりによって正気に戻ったように仕掛けてくるとは思わなかったのだ。
 
 奇襲が失敗に終わったリズは表情を一切変えないまま、左手の薬指でグイっと唇の端を押し上げ、歪んで不気味な笑みを返した。
 
 レイズはこの意味を知っている。子供の頃に喧嘩をした時、口を利かない代わりに二人で決めた合図だ。
 指で片方の頬を吊り上げる時の意味はそう……。

「『お前が嫌い』か……。ああ、そうかい!」

 頭に血が上っていく感覚に体が熱くなり、レイズは歯を剥き出しにして笑う。
 体勢を低く構えたリズは正面から襲い掛かり、レイズの脇腹を狙って双剣で切り払った。
 運よく一撃を避けられても、もう一振りが反対の急所を狙う。
 
「ぐっ……!」

 レイズは魔法の防御壁で二本の剣を弾く。
 リズの青い瞳と視線が交わり、真っ直ぐに見つめ返す鋭い眼光が威圧する。
 魔銃を向けようとレイズは右腕を突き出す。だが、弾丸が放たれるよりも早く、剣先を下にして逆手に持ち替えたリズが懐に入り込んだ。
 
 無言で放たれる斬撃は重く素早い。
 相手が一緒に過ごしていた片割れだろうと容赦のない姿は、ルークの人形というにふさわしい。
 訓練を積んでいるわけでもなく、リズと同じように動けないレイズは魔法の壁で攻撃を防ぐので精一杯だ。
 
 無詠唱で氷の槍が召喚され、勢いのままに突っ込んできた。直撃は避けられたが、間髪入れずに次の乱撃が降りかかる。
 リズが狙うのは頭や首、腹など一撃で死に至らしめる急所ばかりで、相手をじわじわと痛めつける事はしない。
 
 幼い頃、仕事で始末した相手が苦しむ姿を見たくないと怯えていたリズに、苦しませない人の殺め方を教えたのはレイズだ。
 あれから何年たっても同じ戦い方をする姿に、レイズは小さく笑った。

「お前は変わらねぇな! いつまでもグズグズグズグズ……!」

 吐き捨てるようにそう叫んだレイズは、防御壁を解いて両手に炎を作り出した。
 レイズは戦いが得意ではない。幼い頃から魔力の量が少なく、虚弱体質のため同年代の友達も出来ない日々を過ごした。
 それでも、そんな荒んだ生活の中でも、ひとつだけ幸せだったと言い切れることがある。

 体内で今作れる最高温度の炎を握りしめたレイズは、最後の賭けに出た。
 絶えず放たれる氷の矢を受け止めながら、強く掴んだリズの両腕を炎で焼き落とし、双剣を力づくで捨てさせた。
 
 もがいて逃れようとするリズの腕から魔力が溢れ、片割れを拒絶する氷の茨を作り出す。
 魔法は術者の精神状態に左右される性質があり、未熟なリズの心の中は乱れ始めていた。
 
 愛情に恵まれなかったレイズが短く太い人生だったと思えたのは……幸せだったと言いきれるのは、他でもなくリズがいたからだ。
 共に生きる片割れがいてくれた事、それがどんなに心の支えになっていただろうか。
 出血を拭う事もせず耐えるレイズの表情とは対照的に、氷の茨で身を守るリズの表情はどこまでも静かなものだ。
 
 また目を狙った茨が眼鏡を弾き飛ばす。レイズは無数に突き刺さる棘の痛みに顔をしかめたその時――。
 一本の鋭い棘がレイズの腹を貫いた。

「っは……?」
 
 一瞬の激痛の後に、じわりと侵食されていく肉の裂ける感覚。それでも、掴んだこの手は離さなかった。
 痛みを舌打ちで誤魔化し、リズの腕が再生しきる前に思い切り息を吸ったレイズは体を反らせ、勢いをつけた渾身の頭突きを食らわせた。
 
 レイズは一瞬、目の前に火花がちらついたが、痛みよりも怒りが勝り心の底から叫んだ。
 
「最後の喧嘩くらい……テメェの意志でやれやぁっ!」

 腹に刺さってた棘を勢いのままに抜き取り、バランスを崩したリズを蹴り倒した。
 
 
 いつしかリズの身を守る氷の茨は溶けて水になり、乾いた大地に流れていく。
 仰向けで花の上に倒れたリズは、額をぶつけられた痛みは感じなくとも、衝撃で脳を揺らされて動けないでいる。

 当然だ。レイズの頭は固い。
 
 リズは悲鳴も上げなければ、言い返しもしない。ただ、人形のように倒れているだけだ。

 レイズは落ちた眼鏡を拾うと、燃えるような炎の瞳を細める。軽く咳き込んだ口からは血の泡が出て来た。
 夜の荒野は気温が下がっているのか、レイズは白い息を吐き出しながらリズを見下ろす。
 
「じゃあな、リズ」

 片割れの傍にかがみ込んだレイズは、リズの心臓に銃口を押し当てた。右手に握る魔銃の引き金が音を立てる。

「……れい」

 今まで話さなかったリズは、深い海のような色の瞳で兄の名を呼び左腕を伸ばした。何も言わないレイズは、最後になるであろう片割れの声に耳を傾ける。
 
「どうしてこうなっちゃったのかな……。リズは、れいと母様に会いたかっただけなのに」
「それは……」

 撫でるようにレイズの首筋に回されたリズの左袖から、小さな鋭いナイフが滑り落ちた。
 リズはそれを手の中で遊ばせるように扱い、気付かれないようにレイズの首へと先端を突き付ける。
 
「……ごめんな、最後まで守ってやれなくて」
 
 言葉に詰まったレイズは引き金を引く指に力を込める。リズもまた、心臓を撃ち抜かれて死ぬ前に刺し違えようとナイフを振り下ろした。

 ここは、子供の頃に二人で部屋を抜け出して遊んだ思い出の場所だった。
 顔も見たことのない母親が愛したセイランの花に囲まれていれば、母と会えたような気になれたから。
 どんなに家の中に居場所がなくたって、一緒にいられたら平気だった。日が暮れるまで泥だらけになって遊んだ記憶が蘇る。
 

 本当は、あの時もっと他にやり方があったのかもしれない。
 こんな形じゃなくて、助け合って生きられた未来もあったのかもしれない。

 でも、そうじゃない。そうはならなかった。
 だから、終わり。それだけの話。

 愛情で出来た思い出の糸が千切れる音がした。

「は……はは……ははは……」

 乾いた笑い声は、震え枯れていた。
 
 月明かりが二人を照らし、目を見開いたリズの目元に温かい雫が落ちた。
 ぽたり、ぽたりと不規則に零れ落ちていく水の玉は美しく、けれど切なく。
 
「あぁ……本当に、はは……出来るわけねぇだろ……こんなの……」

 大きな赤い目を見開いたまま、子供のように大粒の涙を零していたのはレイズだった。

「もう戻れないなら、俺が終わらせてやらなくちゃって決めてたのに、撃てるわけねぇだろ……! 出来てたまるかよ……」
 
 レイズはリズを撃てなかった。
 魔銃を手放し、自分を奮い立たせる為に食いしばっていた歯を解いて、どうしようもなく困ったように笑って泣いていた。

「……」
 
 頬に落ちた涙を右手の指で拭ったリズは、その液体が何なのかわからずに茫然としている。
 左手に握っていたナイフは、いつの間にか手放していた。
 ただ、記憶はその顔を知っていた。

「れい、こんなところにいたの?」
 
 傷跡がついたリズの指が、そっとレイズの涙に触れる。
 リズには感情がない。けれど今、あれほど欲しいと思っていたココロは痛みを感じていた。

「リズ……? お前、自分がわかるのか……?」

 そこまで言いかけたレイズは口を閉じた。リズは今、ここではない記憶の中にいるレイズウェルを見ている。
 どんな時もリズの中にいた「れい」は、幼い頃のレイズだ。
 初めて薬を飲んだ日に止まってしまった記憶の針が、いま少しずつ動き出していた。

「もう大丈夫、れいはリズが守ってあげるからね」
 
 微睡の中にいるようにレイズの後頭部を撫でたリズは、思い出の糸を辿るように「れい」の涙を拭った。
 これも薬のせいなのかはわからないが、リズは瞬きをすると起き上がる。
 そうして、レイズと目を合わせで問いかけた。

「……れいは、ずっとそばにいたんだね?」
「ああ……」
 
 これ以上の言葉が出てこないレイズは頷く。
 長い間、ずっとリズに自分がレイなのだと言わなかった理由は、すぐに感情で動こうとするレイズ自身を止めるためでもあった。他人に弱みを見せれば利用されてしまう、だから信用しない生き方しかできなかった。

 万が一、何かあった時にリズがレイズを簡単に切り捨てられるように。
 一人でも生き延びられるように……そう思っていた。
 
 
 リズは、風に揺れ光を反射し、キラキラと輝いているセイラン花を母親にもらった青の目で見る。
 思い出の匂いを胸に吸い込み、少し間を置くと口を開いた。

「……レイ、教えて欲しい」

 続きを言うのを躊躇う。わかっている、答えはきっと暗闇だ。
 それでも、リズは前に進むと決めていた。

「かあさまは、もういないの?」
「お前……」
 
 レイズは、幼かった片割れが自分の意志で薬の作用に抗い、過去の悪夢に立ち向かうことを決めたのだと悟る。
 きっと、今のリズならどんな残酷な運命も自分で受け入れることを望むのだろう。
 その真剣な表情に、もう何も誤魔化さないと心の中に決めて口を開いた。

「……ああ、いない。全部、俺がついた嘘だ」

 あの日、初めて薬を飲ませた日。酷く混乱して暴れるリズを納得させるため咄嗟についた嘘だった。
 リズは、自分を愛してくれる母親に会えるという希望だけで生き延びていた。
 
 例え、その結果がこれだとしてもレイズは後悔していない。
 壊れていくリズの心を繋ぎとめたくて母親の幻影を追ったのだ。
 
「今まで、ずっと、ごめん……母さんはいない。死んだんだ」
 
 寂しさと罪悪感で押し潰されそうになっていたのはレイズも同じだった。
 真実を聞いたリズは俯き、自身の目元を指でなぞりながらポツリと呟いた。

「かあさまはいない……いない。死んだら、もう会えない……」

 静けさの中、繰り返し自分に言い聞かせる度、あの子の乏しい表情が曇っていく。

 知っているのだ。
 死んでしまったら星の海に還り、もう二度と会えないと。
 
 頭ではわかっているのだ。
 大切な仲間たちと優しいゲルダおばあちゃんに教えてもらったから。
 
 わかっているからこそ、抱いた思いをとどめておけなかった。
 
「リズはずっと、かあさまとお前に会いたかった……記憶の中のかあさまは、本当のかあさまじゃなかったとしても、会いたかった……」

 これが、ずっと隠していたあの子の本当の心の声だった。
 自分の中で生まれた気持ちに落ち着かず、無意識に呼吸が早くなる。

「でも、かあさまは居たんだ……! だって、かあさまは……ミリアムかあさまは、リズにアメをくれた! 抱きしめてくれた!」

「……」

 レイズは何も言わずに目を伏せる。

「いたんだ……間違ってないはずなのに……なのに……っ」

 リズは息を荒くし、途切れとぎれの記憶を繋ぎ合わせる。
 現実に生きていない母親の記憶は嫌気がさすほど鮮明で、笑顔や匂い、抱きしめられた感触さえもあると錯覚してしまう。

 与えられた愛情に裏切られる痛みと苦しみはどんな制裁よりも残酷だ。
 
 甘く優しい幻覚はあの子の心深くを蝕み、ケラティスの薬は『母がくれるアメ』だと脳に刻まれてしまっていた。

「言う事を聞いて、いい子にしていたら絶対に迎えに来るって……愛してるって、言ったんだ……!」

 諦めきれない思いに比例して弱かった声が鋭くなっていき、リズは人形のように整った顔を引きつらせ固く目を閉じ、今まで我慢していた悲痛な思いを吐き出した。

「うそつき……っ、嘘つきぃ……!」

 やり場のない感情に任せてレイズの胸倉を掴み、掠れた声でうまく言葉に出来ない気持ちをぶつけて叫んだ。

「かあさま、かあさまぁ……会いたかった、あいたかった……!」
 
 自分の生きる希望だった母親を呼んだリズは「嫌だ!」と叫ぶ。
 頭では理解出来ても未熟な感情が追い付かない。

 悲しい、憎い、寂しい、感情が混ざり合い胸の痛みが増す。
 信じた世界が崩れ落ち、今まで立っていた場所さえもわからなくなる、そんな感覚。

 絶望が手招きしているのは明白だった。

「でも、でも……っ!」
 
 けれど、長い夢の果てに突きつけられた暗闇を見てもなお、リズウェルは決して闇に落ちないと自らの胸に手をあて、脆く不安定な精神が折れないように歯を食いしばる。

「リズは知ってる。会えなくても、いなくても、ここにいるッ! かあさまがくれた命が大切だとわかった、理解した!」

 そう繰り返し、母のものだった瞳の中に意志を叩きつける。

「だから、リズは……もう元の暗殺者には戻らない!」
 
 感情のない人形として生きてきたリズにとって、生まれて初めての喪失感は大きく、押し寄せる罪悪感が精神を責め立てた。
 
 それでも前を向く為にヘドロのような感情を受け入れ、未だ記憶の中で微笑む母の幻影を振り払う。

 いつか罪を償えと剣を向ける存在も現れるだろう、報復され命を落とす時が来るかもしれないだろう。
 
 その全ての悪意を飲み込んでもなお、あの子は必死に立ち続ける事を選んだのだ。

 その力強さを前にして、初めてレイズは自分の心の内を告げる。

「……お前は仕事をこなせなくなったあの日、廃棄処分されるはずだった。俺がお前に薬を飲ませ、心を失くした人形に作り変えた」

「……え?」

 ぴくり、と青の双玉を包む瞼が震える。この事は話さない方が幸せでいられるのだろう。
 少なくとも、レイズにとって話す事にメリットはない。

 自分を守る誤魔化しは一切しないと決めた。例え、この話をしてリズに恨まれてもいい。
 
 得意の言葉運びで逃げないのは過去の弱い自分を乗り越え、胸を張ってもう一度この子と生きていきたいからだ。
 
「お前に昔の記憶がなくても、ずっと俺はお前に助けられていたんだ。大切な片割れだ、死なせたくなかった」
 
「お前が……?」
 
 そう呟いたリズの声は震えていた。

「ああ、そうだ。ごめん……自分勝手にお前を守った気でいた。俺の方が化け物だったんだ」
「……」

 目を逸らさず心からの本心を伝えると、あの子は少し黙り込んだあとに何故だか微笑み、こう言った。

「リズに昔の記憶はない。今のリズはリズが好き。これは本当に本当」

「リズ……」

 レイズは目に浮かんだ涙を首を振って飛ばす。一瞬だけとはいえ、困ったように笑う片割れにうまく言葉が出てこなかった。
 
 リズは自分の目を両手で擦り、赤くなった目尻を下げた。

「こんなに痛くて苦しいのに、悲しい時は涙が出るって知ってるのに……どうしたら涙が出てくるのかわからない。お前が化け物なら、ぼくはもっとひどいばけものだ……」

 そう言って自嘲し、口の端を吊り上げた。片割れの肩を掴んだレイズは否定する。

「違う! お前は心があり、感情がある。人形でも化け物でもない、人間だ!」
「本当に……?」
 
 レイズは、戸惑うリズに強く頷く。

「ああ、同じだ。お前は人間だよ」

「でも……こんな時、どんな気持ちでいたらいいのかわからない。ココロがないから……?」

「違う!」
 
 腹から流れる血にかまわず、レイズは両腕を伸ばしてリズを抱きしめ、不安を払うように強く、強く言い聞かせる。

「心は誰の中にもあるんだ。お前は『悲しい』がわかってる!」
「胸の中に穴が空いたみたい、なのに涙が出ない……」

「涙なんか出なくてもいいんだ。感情なんて少しずつ知っていけばいい」

 そう言ったレイズにリズは目を丸くする。擦りすぎて赤くなった瞳から涙は流れない。

 けれど目に見えない痛みが、確かにあの子の人間性を作っていき、事実を受け入れ始めた心が失われていた感情の一部を目覚めさせていく。
 
「お前はリズウェル・ルークだ。名があり体もある」
 
 レイズは、傷つき折れかけた心を引きずってでも前に進むと決めた片割れと、次こそ対等な同士でいようとしたかった。
 決意を噛みしめながら一言ずつゆっくりと伝える。

「今度こそ帰ろう、海を見る約束をしただろ?」
 
 脳裏に子供の頃のリズの姿が浮かぶ。他人に与えられた愛情を羨んで泣いていた小さな背中は、もう大人と変わらない。

「ついでに、ここにはお前の仲間だっている。とんだバカ共だよ。だからもう、無理しなくていいんだぜ」
 
 そう言ってニカリと笑ったレイズは、七歳の時から止まってしまったあの子の心を目覚めさせるため、なにより過去の無力な自分自身を許してあげるために片割れを強く、強く抱きしめた。

「生きよう、リズ。生きて、これから色んなものを見よう。……それで、一緒に大人になろう」

 優しく語り掛けるレイズの言葉は、いつもストレートで遠慮がない。
 
 それ故に、冷え切った氷を解かす炎のように力強く、水面に波紋が広がるように響いていく。
 言葉の温もりを受け取ったリズはしっかりと頷いた。

「……うん、リズは生きたい、皆と生きて……大人に、なりたい……!」
 
 声を震わせるあの子の深い海のような色の瞳に輝きが灯り、透明な涙の雫が流れ落ちた。
 それは深く暖かい波のようにとめどなく溢れ、次から次へと頬を伝い落ちていく。
 
「あ、れ? どうして? もうココロが痛くないのに、どうして……?」

 戸惑い目を大きく開いたまま、小さな子供のようにポロポロと泣き出したリズウェル・ルークは兄の服を掴んだ。

「知るか! 人間はな、悲しくなくても泣くもんなんだよ……」

 口ではそう言うレイズだが、彼の声もまた震えていた。
 涙声をのみ込み肩を震わせたリズは、ぐちゃぐちゃになった顔で言う。

「ねぇ、人を殺して悲しいを振りまいても……リズは、リズのココロを持っててもいいの?」

「当たり前……だろ、だって、お前はとっくに、ずっと前から人間なんだから……!」

 声を震わせて断言するレイズの目に大粒の涙が溜まる。子供ように声を上げて泣くのを堪えようとすればするほど嗚咽が止まらないのだ。

「……うん」

 その泣き顔があまりにも幼かったので、何だか懐かしくてリズは穏やかに目を閉じた。

 夜の海は暗く深く。上手く泳げない二人は溺れながらも手を取り、声を上げて泣いた。
 今度は迷わない。もう一人じゃないのだから。

 ようやく落ち着いた頃、鼻を赤くしたあの子は、やや乱暴に片割れを押しやりポツリと切り出した。

「……レイ。人は、悪いことをしたらどうしたらいいの?」

 リズは、自分が罪もないジゼルや子供達を傷つけたことが悪い事なのだとわかっていた。
 誰に言われたのでもない、自分自身の意志でそう思えていた。
 
「ここに来るまでに、リズはすごく酷いことをいっぱいした。何もしていない人を殺して泣かせた。子供を一人ぼっちにした……リズはそれが正しいと思ってた」
「ああ、そうか……」
 
 それを聞いていたレイズは、誰の事を言っているのかすぐにわかった。
 リズは昔の記憶を無くしていても、本質はあの頃と何一つ変わらない愚かなまでに素直で純粋な子だ。

 だから、あえて声のトーンを上げる。
 
「そうだな……。じゃあ、ジゼルさんの所に一発殴られにでも行くか! それで許してくれるだろうよ」

 人の心を――、人間性を手に入れたリズならもう大丈夫だ、と心の底から安心し柔らかく微笑む。
 
「殴られる? 死者は動かない。人を殺すことは悪い事だ。それじゃだめだと思う……」
「はは! それもそうか!」
 
 頑なに首を振るリズが何だかおかしくて、レイズは声を出して笑ってしまう。
 この子は、自分がジゼルさん一家を手にかけたと思っているのだ。

「案外、ピンピンしてるかもだぜ?」
「そんなはずはない。あの時、リズは確かに仕留めた。子供が一人残っているだけだ。でも、リズの力は死んでしまった魂は戻せない……」

 本気で償う方法を考えているリズは頭を抱えている。
 真剣に悩む様子が面白くて、レイズはジゼルさんが生きている事を話すのがもったいなく感じていた。
 
「ま、会ってみりゃわかるわ。なんたってあの人は母さんの妹でお前と同じ、癒しの魔力を持っていたからな。フラクタのクソに焼かれた俺の両目も治してもらったし」

「……どういう事?」

「あとは、お前を連れて帰ってこいとも言われてるしな」

「どうしてレイがあの人の事を知ってるの? 生きてるの?」

「さぁな? 自分の目で確かめてみな」
 
 なおも不安げに食い下がるリズをからかいたくなったレイズは、のらりくらりと話を終わらせ、片割れに背を向ける。

 月がセイランの花畑を照らし、光を取り込んだ花びらが一斉に風を受けて舞い上がる。
 母親が遺してくれた、このセイランの花は別名『夜星花』。
 どんなに暗い夜でも、月光さえあれば星のように輝きを持つ花の名だ。
 
 夜空の大海へ踊るように飛んでいく花びらを見上げたリズが、「ずっと長い夢を見ていたみたい」と言った。

 大人びた横顔が月光を受けて白く輝き、レイズは花の揺れる音に耳を傾けながら柔く返す。

「これからもっと楽しい事が待ってるさ。お前はどこへでも行けるんだ」
 
 思い出は色褪せず、子供の頃に夢を語った日もこんな月夜だった。

 不意に、リズが風に舞う花びらを見送りながら言う。
 
「レイ、ずっと守ってくれてありがとう。もう一人で歩けるよ」
 
「は? あ、ああ……!」

 驚いたレイズは思わず俯いてしまった。まさかリズが自分にお礼を言うと思っていなかったのだ。

「もう何があっても平気だ。リズはリズを取り戻してみせる……!」
 
 金色の花に囲まれ無自覚に笑うリズは、もう夜の隅で一人朝を待つことはない。
 ここにはもう、ヒトに憧れ、泣いて笑って、ココロが欲しいと暗闇でもがいていた人形の子供もいない。

 思いのままに、自由に生きるヒトの子がいるだけだ。
 
「……いや、俺の方こそ。ありがとう、ごめんな」

 今のレイズにはそう返すので精一杯だったが、返って来た反応は意外なものだった。

「謝るのが好きなの? 初めからリズはお前を敵だと認識していない。リズはココロを手に入れた。無敵だ!」

 見てろ、と自慢げに胸――いや、心臓の上へ手を乗せる片割れが「フヒッ」と変な声で笑うので、つられてレイズは吹き出してしまった。

「ばか! お前、ネクラーノンを演じすぎて役が抜けてねぇじゃねぇか……」

 そう言って、レイズは伏せていた顔を上げ、兄が幼い弟妹にやるようにリズの頭をぽんぽんと軽く叩く。
 
 まだ乾ききっていない涙がまたひとつ頬を伝い落ちていったが、今は拭う気にはなれなかった。

 風が静かになり、セイランの花はまた穏やかに揺れる。
 さて、と振り返ったリズは落とした双剣を拾うと、思い出したようにレイズの腹の傷を剣の柄でつつく。
 
「そんな事より、早くお前の話の真相を確かめに行きたい。どう? リズは痛いがわからないけど、痛かった気がする。ごめん」

 全く悪びれることのなく、どストレートにリズは返す。感情豊かなネクラーノンとは違い、今のあの子は不愛想で無口無表情が素のようだ。
 
「普通にいてぇよ。次から喧嘩する時は素手にするわ。あと今度は茨出すなよ、あれもマジでいてぇから!」
「約束は出来ない」
「いや、お前が本気出したらこっちは死ぬんだわ! あとお前、途中からわかってて喧嘩売ってきただろ!」
 
 そんな話をしながら、リズはレイズの腹の傷に触れ、母親ゆずりの癒しの魔力で治療している。
 子供の頃からそう。喧嘩をした後は、必ず仲直りをするのが二人のルールだった。

「とても顔が青白い、肉が見えている。よく死ななかった」

「いいから早くしてくれ、こちとらマジで死にそうなんだわ……!」
 
 止まっていた時を取り戻すように軽口を叩き合いながらも、レイズの夕空色の凛とした瞳は希望を映して輝き、リズの青空色の澄んだ瞳もまた、未来を見つめていた。
 
 あの日、自らに呪いをかけ、黄昏たそがれの闇に落ちた二つの星は再び並んだ。

 落星の行方は晴天の夜、その目に黎明れいめいを見ていた。