涙を指で拭った少女は、すっと顔を上げるとシャオロンの氷像を抱いたまま口を開いた。
「……人間を完全に信じる事は出来ない。けれど、私は兄様が生きているという希望にかけてみたいと思ってもいる」
「じゃ、じゃあ……」
言いかけたジークは、自分がまだ名乗ってもいない事を思い出してハッとなった。
「ちゃんと言ってなかったけど、俺はジーク・リトルヴィレッジでその仲間の……」
「いい。そこのアインローズから一通り聞いている」
仲間を順番に紹介しようとする声を凛とした低音で遮った少女は、シャオロンの氷像の首を部下に持たせると姿勢を正し右手を胸にあて、真っ直ぐジークの眼を見て名乗った。
「私の名は、ケイナ。ケイナ・アーデルハイト・リーデルハオラロディオールだ」
「ロッ……!?」
彼女の名前を聞いた瞬間、驚いたジークがハツとレイズを見れば、二人とも呆れたような視線を返してきた。
「どーみても、普通の亜人じゃねぇさろ。黄金眼を持つのはロディオールの民……龍神族さ」
「姫さんだ。姫さん。じゃなきゃ、この俺が跪くわけねぇだろ」
確かに、このケイナ姫は今まで出会って来た亜人達とは違い、それ相応の教育を受けた所作の丁寧さなどの気品を感じていた。それでいて、歴戦の猛者のような落ち着き払った対応。
一族の戦士を率いる姫であり戦士でもあるなら納得である。
「そうならそうと早く教えてくれよ! 俺、不敬すぎてどうしようもない所まで来ちゃってるんだぞ!」
思わぬ事実に白目を剥いて抗議するジークだが、時すでに遅し。不敬しまくりであった。
だが、そもそも人間に対してあまりいい印象を持っていない為か、言及されることはなさそうだ。
最初から期待値が低いと言うのもなんとやら……。
「私もあの方に確かめたい事が出来た故、龍の神域へ入る事を認めはする」
ケイナは静かにそう言うと腕を上げて部下に合図を出す。
その途端、今まで控えていた龍神族の戦士たちがAHOU隊の四人を取り囲み、それぞれの手足に硬い蔓で出来たロープを結んでいく。
「あっ、ちょちょっ!」
「まぁ、そりゃそうだろ。簡単に信じられた方が怖いわ……」
「いでで、肉挟んでるさ!」
「とても、ぐるぐる巻きだ」
あっという間に両手足を縛られ木の棒に括り付けられてしまう。
「お前達は捕虜として連れて行く。だが、処遇を決めるのは私ではない!」
ひたすら巻き巻きにされている人間達に背を向けたケイナは歩き出す。
「それってどういう……」
不安げに問いかけるジークを肩越しに見たケイナは、冷たい戦士の目をして言った。
「もし、今の事が嘘であった時や少しでも余計なことをすれば、胴体とは永久の別れになるだろうな」
「ちょっ、捕虜、捕虜だよね? いきなり谷から落とされるとかないよねェッ⁉」
即座に聞き返すジークは、ケイナの後ろに見えないはずの黒いモヤモヤが見えて悲鳴を上げたが無視されてしまう。
結局、戦士ふたりがかりで棒の前後を担ぎ、ツッコミや悲鳴を上げる間もなく川を渡り始めた。
川の深さは龍神族たちの腰の辺りまであったので、後頭部と背中が濡れてしまい、場合によっては鼻だけ水面から出ているという扱い。
まさに、囚われた獲物……否、食料のように運ばれていく様はとてつもなくシュールである。
「何だかこれって捕虜っていうより、生贄的なアレな気がするんだぞ」
真顔のジークは両手足をぐるぐる巻きに縛られ、地面に背を向けて吊られブラブラ揺れている。
顔面がもう、悲壮感丸出しでデスゲームの参加者のソレである。
ここにシャオロンがいたならば、恐ろしいブラックジョークを披露してくれたはず。
「ああ、眼鏡が落ちそうだ……」
「歩く手間が省けている気がする」
もはや諦めてされるがままのレイズと、無表情で何を考えているのかわからないリズ。
ちなみにハツも人間に協力していた罪により、ぐるぐる巻きの刑に処されていた。
川を渡り終えると白い霧の中に入り、ケイナが何かを唱えると目の前の霧が風に吹き飛ばされるように消えていく。
霧を抜けた瞬間、金属でできた丸い装飾が、チリン……と鳴った。
――暖かい風が顔にかかり、包み込むような光と景色にジークは目を見開く。 目の前には抜けるような青空が広がり、何か翼をもつ大きな生き物が優雅に円を描いて飛び回っていた。
視線を下げれば、自分達のいる場所が荒々しい崖の途中だと気付き悲鳴を飲み込む。
崖のほんの数センチくらいの足場を、ケイナや龍神族の戦士は四人を担いで渡っていく。
その足取りは軽く、進む先に迷いがない。歩きなれているのだとわかる。
さらに驚いたのは、崖の下は鮮やかな緑が生い茂る森だという事だ。
ただし、ジーク達が住む人間の世界とは違い陰鬱な雰囲気がなく、澄んだ空気と相まってどこか物語の中にある、命を燃やし尽くした魂が辿り着く楽園のようにも感じた。
森の上を飛ぶ色とりどりの小鳥が、崖の辺りまで来ては急降下していく。
かと思えば、一羽が木に実っていた果物をくわえてケイナの肩に止まった。
ケイナが小鳥に指を差し出せば、小さな体は飛び乗り彼女に話しかけるように鳴く。
「そうだ。神域に近付いた人間を捕らえた。お前は先に行ってフェイロン兄様に伝えておくれ」
小さな黄色の使いから木の実を受け取ったケイナが柔らかく笑むと、小鳥は身動きが取れないジーク達を一瞥してどこかへ飛んでいってしまった。
「……」
ジークは、彼女が鳥と会話をしていた事にも驚いていたが、何よりも今いるこの場が見た事もない場所であり、人間の世界とは全く違う物なのだと気付いて言葉が出なかった。
風の匂いも、空の色も、生き物も、何もかもが知らないものだった。
同じ大地にも関わらず、まったく違う世界に来てしまったような不思議な感覚――。
けれど、崖を降りる途中で見かける亜人達の顔は明るく穏やかだ。
通りがかるジーク達を珍しそうに見ても、攻撃をしたり逃げ回ったりはしない。
「亜人がいっぱいだ。リズはこの亜人を初めて見る」
「俺達が怖くないのかい? なんか、珍獣を見るような目で見られてるんだぞ……」
同じく、まんまるの目で見つめ返すリズと予想外の反応に戸惑うジーク。
人間の世界に住んでいる亜人達はいつも怯えて隠れ住んでいるのに、こちらで生きている亜人達は外の世界の奴隷制度や侵略の歴史など知らないかのように、好奇心旺盛に近付いて来る者もいた。
亜人戦争の遺恨や歴史がなかったかのように友好的なのだ。
……いや、それ自体を知らないのだろうか。
「まさに箱庭だな……」
レイズは表情もなくボソリと呟く。
「…………」
唯一、亜人の言葉がわかるハツもまた、何も言わず顔に影を落としていた。
両腕に翼を持つ人間と似た姿の亜人達は、断崖絶壁での生活に慣れているのか龍神族へ挨拶をして崖を飛び降りていく。
岩肌にぶつかる寸前、腕の翼を広げ自由に滑空していく姿は広い空を泳いでいるかのよう。
「すごい……」
あるがままに生きる姿を見ていたジークの胸が熱くなる。
ここが亜人の隠れた住処なのだと実感していた。
黙々と崖を下り、一行は途中で立ち止まると先頭に立つケイナがこちらを見ていた。
「……」
彼女は素直に感動しているジークや、他の仲間達の顔を見て微かに目を細めるとまた歩き出す。
断崖絶壁を越えて森を進み、小川を渡れば草原が見えて来た。
川辺で眠る大型の動物に似た亜人の横を通り過ぎ、盛大なくしゃみをお見舞いされたりもした。
いくつかの谷を抜け、また崖を上り辿り着いたのは、大きな岩を掘って作られた巨大な門だった。
両端に斧槍持った石像が迎える開け放たれた門の奥からは、何やら活気づいた話し声が聞こえる。
槍を留め具で固定し背負ったケイナは、顔を上げて足を踏み入れていく。
「では、参ろうか。嵐龍王ロディオール、フェイロン様の元へ」
振り返らずにそう言ったケイナの表情はわからないが、大切なシャオロンの氷像を抱く両腕に力が入っていた。
「ロディオール……それってシャオロンの事じゃ?」
ジークが言いかけたその瞬間、人々の視線が集中する。
ここは市場のようで、露店を開いて果物や花を売る商人達、買い物をしていたその場の誰もが彼女に敬礼をする。
ケイナは向けられる期待の眼差しを受け止めながら優美に微笑んで見せる。
人間であるAHOU隊には何を言っているのかわからないが、この歓声は姫君であるケイナに向けられたものだろう。
生贄の獲物の姿で連れられていくジーク達を見たロディオールの民は、顔を強張らせる者や子供を抱きしめる者、何かを怒鳴りつけてくる者もいた。
姫が率いる一団の前で取り乱す者はいなかったが、先ほどの亜人達とは違い、明らかな憎しみを向けられている事がわかる。
市場を晒し物のように連れられ、最奥にある高い一枚岩を掘って作られた要塞へと向かった。
