第8話『黄昏の落星⑧』

されど、少年の儚い英雄物語は続かない。
 痩せた貧しい土地で植物が生きられないように、残酷な物語を飾る最後の幕が上がる。

リズが感情と愛情を覚えてしまったあの日から、レイズの地獄の日々が始まっていた。
 心を持たないはずの冷酷な暗殺者が、愛情と死の恐ろしさを知ってしまったのだ。
 
 意志を持った人形は、自らの手で殺めてしまった命を忘れられず、毎夜悪夢にうなされる。
 
 その命の一つひとつに帰る場所があり、待っている人がいるという事に気付いてしまったあの子は、もう化け物ではいられない。

リズは、仕事を失敗することが多くなっていた。

レイズがリズを守りたい一心でついた優しい嘘が、今はあの子を苦しめてしまっていた。
 そう気づいた時には、もう何もかも遅い。

精神的に不安定な片割れを支える為、レイズが仕事に同行するも、リズは標的に刃を振り下ろせなかった。
 どんなに制裁を受けて、体中がボロボロになってしまっても何度も逃げてしまう。

どれだけ涙を流し恐怖に耐えても、どれだけ痛めつけられて血を流しても、人を手にかけられなくなっていた。
 
 この頃になると、当然、管理者であるレイズにも制裁が下る。
 レイズは、父や兄に暴力を振るわれるたびに自分の心を殺して耐えていた。

毎日、口に出せないような酷い傷を負って戻ってくるリズは、辛いといつも泣いてレイズに縋る。
 人を手にかけるのが怖いと泣いて、空腹だとまた泣き出す。

リズの世界にはレイズしかおらず、あの子は全てをレイズに頼ってしまっていた。
 思えば、言葉を覚えるのも早かった。リズは知能が低いのではなく高かったのだろう。
 
 だからこそ、自分の中の矛盾に気付いて心が壊れかけていた。

過酷な状況の中、レイズは水と食事もまともに与えてもらえず、怯えて逃げ帰って来たリズのケアと、これからどうなってしまうのだろうという不安で押し潰されそうになっていた。

自室のベッドに腰かけ、殴られて腫れた頬を水で濡らした布で冷やす。
 レイズは水分が足りず、回らない頭で必死に片割れを慰めて説得していた。
 
「……リズ、いい加減にしろ。これ以上、仕事に失敗したら無事じゃすまない。何か理由があるのなら言ってくれ」
「……んん……」

ベッドの中に潜り込んだリズは、毛布から顔だけ出して理由を言いたくなさそうに口を尖らせた。
 それでも、自分を見下ろすレイズをちらっと見て、頭からすっぽりと毛布をかぶる。
 
「……目。目が怖いの。あの時の亜人の子の緑色の眼が、ずっと忘れられない。殺さないといけないのに、あの時のことが浮かんで体が動かないの……」

「お前、まだそんなこと……相手に命があると思うな。やる時は首や胸の急所を狙え」
「……もういやなの」

そう言ってアドバイスをするが、リズの顔は浮かないままだ。
 この子の中に残ってしまった人の死の間際の表情は、どんなものだったのだろう……レイズにはわからない。
 けれど、この家にいる限り、役に立てないままではいられないのだ。

どこか、他人事のようなリズの態度に苛立ったレイズは、力任せにベッドを殴りつけた。
 
「いいから余計なことを考えず、お前は俺の言うことを聞いていればいいんだ! 暗殺者として仕事が出来なければ殺されるんだぞ!」

「わかってる! でもレイはリズと同じじゃないから、簡単に言うんだ!」
 
 リズは今までにない怒り方をする片割れに驚きながらも、負けじと言い返して指で口の端を吊り上げる。
 
 これは、二人が喧嘩をする時の合図のようなものだ。意味はそう――。
 
「酷いこと言うレイなんてきらい!」
「ああ! 俺だって、こっちのことも考えられないヤツなんか嫌いだ!」

――お前が嫌い。本当は、お互い思ってもいない言葉なのに自然と口をついて出てしまう。
 体と心は、もう限界だった。

顔を突き合わせて睨み合っていると、部屋のドアがノックされる。
 レイズがドアを開けて相手を迎えようとすると、そこには燃える炎で出来た翼を羽ばたかせる鳥がいた。
 
 父親の使い魔である炎の鳥は、レイズが出て来たのを確認すると、役目を終えたというように燃え尽きて消える。
 誰もいなくなった代わりに、足元に一枚のメモ紙が落ちていた。
 
「なんでこんなところに……」
 
 レイズがメモ紙を拾い上げると、どの兄姉のものでもない筆跡で書かれた文字が並んでいた。
 紙には、二人で食堂に来るように、と確かにそう書かれていた。
 
「……これ、あの人からだ……」
 
 文字を目で追っていたレイズは、父親から呼び出された事に顔を強張らせる。
 緊張しながら、ベッドの中でよく膨らんだパンのように丸くなっているリズを引っ張り出し、急いで食堂へ向かった。
 
 ルークの館は無駄を省いた造りになっており、しんと静まり返った廊下に装飾はなく、花瓶に生けられたオレンジ色の花が頭を垂れているだけ。
 
 いくつかの角を曲がったところで、二人は食堂に辿り着いた。
 レイズは深呼吸をすると、状況がわかっていないリズを軽く睨む。
 
「いいか、リズ。父さんや兄さんたちの前では、何があっても表情を変えるなよ」
 
「う、うん。レイのいう事聞く」

 頷くリズは、レイズの様子がいつもと違うことに気付き、落ち着かなく視線を彷徨わせた。
 
 扉を開くと、まず目に入ったのは広く大きなテーブルだ。

白いクロスのかかったテーブルには家の紋章入りの燭台が置かれており、綺麗に磨き抜かれた銀食器と二人が見たこともない色鮮やかな料理が並んでいた。

どれも、普段の食事には出てこないものばかりだ。
 食堂には他にフラクタとエリオが居たが、レイズは臆する事なく顔を上げた。
 
「……父上、お呼びでしょうか……?」
 
 レイズは足を踏み出すと、テーブルの奥で食事をしている男へ膝をついて挨拶をする。
 後ろを着いてきたリズもそれに並んで頭を下げる。

すると、父親であるバリスは実の子供であるレイズを見下ろしたまま、口にしていたワイングラスを置いた。
 血を彷彿させる赤い液体には、厳格な赤毛の男の顔が映っている。
 
「レイズウェルか……こちらに来なさい」
「は、はい!」

まさか、近くに呼ばれると思っていなかったレイズは、緊張で言葉に詰まってしまう。
 
 言われた通りにリズと二人で傍に行けば、あんなにも自分を毛嫌いしていた父親が優しく抱きしめてくれた。

子を想う親の顔で、男は語りかける。
 
「近頃、お前達が仕事をこなせず悩んでいると知ってな。食事でもどうかと思ったのだ」
「ち、父上……ありがとうございます」

レイズは、生まれてから父親に優しい言葉をかけてもらったこともなければ、抱きしめてもらったこともなかった。
 突然のことに動揺して目が泳いでしまう。けれど、嫌な気はしない。
 生まれて初めての家族の愛は、むずがゆくも心が満たされていくようだった。

次にリズを見ていた父親は、何の躊躇いもなくあの子の手を取り、愛おしいと抱きしめてあげた。

「ああ……本当に、幼い頃のミリアムと同じ……何もかも同じだ」
「う、んん……」

 リズは、戸惑いながらも父親の温もりに甘えようと体を預ける。
 バリスはリズの名を呼ばない。あの子の中にいる別の存在に語り掛けるように虚ろな瞳をしていた。
 
 ミリアムは、レイズを産んですぐに亡くなった母親の名だ。
 レイズは違和感に気付いていた。だが、手を出すわけにはいかず見守るしかない。
 不安が胸をよぎり、心臓の鼓動がいっそう大きくなった。
 
「ミリアム、ミリアム……なぜ私を置いて逝った? 私を一人にするな……」

リズは、表情を変えるなというレイズとの約束を忘れ、無邪気に満面の笑みを浮かべている。
 初めて親の愛に触れられたと、胸をいっぱいにして喜んでいた。
 だから、自分を違う名で呼ぶ父親の様子がおかしい事に気付いていない。
 
「リズの父さま……!」

どこまでも愚かで純粋に素直なあの子は、父親の愛が自分に向けられたものだと信じている。
 
「あぁ……ミリアム。わかっているとも、こんな人形はお前ではない」
 
 バリスは、リズのまんまるな瞳を覗き込むように見つめ、傷跡の残る手を伸ばす。
 正気を失ってしまい、妻の面影を追う哀れな男がそこにはいた。
 
「今度こそ、お前を取り戻そう」
「父さま!」

リズは、優しく頭を撫でてもらえるのだと期待して顔を下に向ける。
 父親が自分を愛してくれているのだと、本気で信じていた。

「……ッ!」

あまりにも狂いきった光景にレイズは口を開いた。
 だが、ここで止めたとして、その先がどうなるのかわかっていて踏み出せない。
 
 リズの視界をバリスの手が覆う。
 次の瞬間、リズは父親の指が自身の左目に触れる感覚のあと、ぐじゅ、と果実が潰れる音を聞いた。