第9話『黄昏の落星⑨』

その時。
 ガシャン! と皿が割れ、哀れな人形の青い瞳に食い込みかけていた指が止まる。
 
「リズ!」
 
 驚いたレイズは我に返り、音の方を見るよりも先に父親の手を弾いた。
 驚きのあまり、キョトンとしているリズの手を引いて自分の方へ寄せる。
 
 ――大変、失礼いたしました。
 
 青年のよく通る低音が食堂に響き渡り、バリスの目の前にはエリオが立っていた。

 表情ひとつ変えず落ち着き払ったエリオは、服が汚れるのも構わず父親の前に膝をつく。
 
「食後の用意をしていましたところ、手を滑らせてしまいました……」
「……エリオか、気をつけよ」

興がそがれた、とバリスは吐き捨てる。
 だが、レイズはエリオがわざと皿を落とすところを見ていた。
 あの優しい兄のことだ。また助けてくれたのだろう。
 
「あーあ、せっかく面白いものが見られたのに……」
 
 フラクタは残念そうに溜息をつき、視線を天井に投げた。
 バリスは椅子から立ち上がると、レイズとリズを冷たく見下ろして言う。
 
「そうか、やはり貴様は当主である私を騙していたのだな」

沈黙の中、バリスはリズを忌々しげに睨む。
 その後はっきりと言い放たれたのは、ずっと恐れていた命令だった。
 
「レイズウェル、に人間性を教えた貴様に罪を償わせる。それをここで処分しろ」
 
「まっ……待ってください! リズはそんなもの持っていません……!」
「レイ、すごく怖い……」

レイズはリズをかばうように前に立ち、リズはレイズの服の裾を掴んで後ろに隠れようと身を縮める。

「黙れ! 人形の分際で人の意志と感情を持ち、さらに温もりまで求めるなど身の程をわきまえよ!」
 
 後ずさり、逃げようとする二人をバリスは恐ろしい形相で追い詰める。

わかっていた。この男は妻とリズを重ねているだけで、あの子を人間だと思っていない。
 先ほどの態度は演技だったのだと、レイズは唇を強く噛んだ。
 
 優しい顔をして油断させておいて、リズがまだ感情のない化け物でいるのかという確認をしていたのだ。

愛情に飢えたあの子の心を嘘で満たし、まだ利用価値があるのか見ていた。
 その結果、リズが感情を持って生きているという事が知られてしまい、殺処分すると決めたのだ。

妻の亡霊を追うあまり、気がおかしくなっているこの男はまるで、いらないものをゴミ箱に捨てるような感覚で二人を裏切った。
 
「……ッ!」

騙された! と心の中で舌打ちをしたレイズは、後ろで怯えるリズの体温を感じながら怒りの息を吐き出す。
 結局、どうしたって自分たちは他人を信じれば利用されてしまうだけの存在だと思い知らされてしまう。
 
「……フラクタ、あれを殺せ。眼球と心臓さえ取り出せれば、あとはどうなっても構わん」
「待ってください! リズは、まだ戦えます! 父上!」
 
 怯えさえも怒りに変え、レイズは鬼気迫る表情で訴え続ける。
 本来の気性の荒さがむき出しとなった我が子を見る事もなく、バリスは背を向ける。
 
「まあ、そういうコトでしょ? お前の仲良しゴッコもここでおしまいでしょうか?」
 
 そう言って勢いよく椅子を蹴ったフラクタは、テーブルの上に並べられたナイフを掴み、レイズへと投げた。
 飛来する銀のナイフは、フラクタの魔力が込められた炎の凶器となり、容赦なく二人に降りかかる。
 
「クソッ!」

レイズは魔力の防御壁を展開し、それを防ぐ。
 だが、圧倒的に魔力の質が悪く、防御壁は軋みを上げる。
 おそらく、次の攻撃を防いだら崩れてしまうだろう。

対して、フラクタは実力も格下のレイズを侮っており、じわじわと痛めつけて遊んでいる。
 
「あはっ! 無駄でしょう!」

愉快と嗤うフラクタの放った炎が二人を飲み込もうと襲い掛かった。
 
「ほら、レイ! 勝てない戦いはしない方が身のためじゃないですかねぇ?」
「うるせぇ! クソ野郎!」

高温の炎を防いだ魔力の壁は崩れ落ちてしまい、同時にレイズはフラクタに飛び掛かった。
 
「リズ! 逃げろ! お前ひとりで遠くまで行け!」
「レイ……」

レイズがそう声を荒げると、怯えて動けないリズが首を振る。
 
「いいから、言う事を聞けっ!」
 
 従順な弟としての体裁なんてクソ食らえ! とレイズはフラクタの足を掴んで勢いのまま押さえつける。
 当然、体格差がある。勝てるかはわからない。それでも、もう逃げたりはしない。
 
「ゴミのくせに! 我に逆らうなんて命知らずにもほどが……殺してやろうか!」

足にしがみ付く邪魔なレイズを引きはがそうと、フラクタは弟を殴りつける。
 
「うるせぇ! てめぇをぶっ殺せるなら、そんなもんくれてやるわ!」
 
 レイズは犬歯を剥き出しにして叫ぶ。
 人生の最初で最後のおぞましい殺意だった。
 リズが逃げる時間を稼ぐためだ。
 手足がボロボロになったって諦められない。

もし、ここで諦めたりすればフラクタはすぐにリズを見つけ出すだろう。

自分はもうここで死んだっていい。ただ、哀れな片割れだけは守ってあげたい。

レイズはその思いだけで、格上のフラクタに食らいついていた。
 
 擦り切れてしまいそうな思いは、限界を超えた身体を動かす最後のエネルギーだ。
 
 レイズは、本当はわかっていた。リズは性格的に暗殺者には向いていない。
 代わりになれるものなら、なってあげたかった。
 あの子には、このまま優しい心を持って生きて欲しかった。

そのためには必ず、こいつフラクタだけはここで息の根を止めるのだと本能が、血が、魂が叫んでいた。
 
 仰向けに倒れたフラクタの両手を足で抑え、落ちていたナイフを右手に握り、奴の首めがけて振り下ろした。

 
 だが、確かに振り下ろしたはずのナイフは、フラクタの首の手前で止まってしまう。
 
 仕留めようとした腕は動きを止め、重力に従って下に落ちる。
 
「……は……?」
 
 レイズがナイフを握る右腕に目をやれば、薄く固い氷がまとわりついていた。
 淡い青はあの子の扱う水の魔法の残光。
 
 後ろを振り返れば、両手をこちらに向けているリズの姿があった。
 
「リズ……」
「レイ、リズはレイが大好きだから人殺しをさせたくない。傷ついて欲しくもないよ」

リズは怯えた表情のままそう言った。
 
「そんなの、お前が気にすることじゃないだろ……なんで逃げない!」
 
 レイズは、フラクタを抑える力を緩めず声を荒げる。
 その答えにリズは困ったように笑い、ゆるりと首を振った。
 
 
「……リズは、リズはレイが大好きだから、レイを置いて逃げたくない。行くならレイも一緒がいい……」
 

それは、リズが持つ感情の中でも一番純粋で儚く、愚かなまでに優しい願いだった。
 
 片割れにつられて、レイズの頬を透明な雫が伝い落ちていく。

ああ、そうか。とレイズは心の中で落とした。
 いつかに兄から『愛情は呪いの枷だ』と言われた言葉が蘇る。
 
 あの時は言葉の意味がよくわかっていなかったけれど、今ならはっきりとわかる。

名前がついた時点で人形は命を宿していた。
 
 最初は同情からだったレイズも、リズに救われてココロを持つ事が出来た。生きたいと思えるようになっていた。
 
 ずっと、幸せが続けばいいと思っていた。本気で自分があの子を守ってあげられるのだと思いあがっていた。
 
 願いは叶わない。真実は残酷だ。

皮肉にも、幸せであれと与えた愛情が呪いの枷となってしまったのだ。
 
 レイズが与えた中途半端な感情のせいで、リズは逃げられなかった。

それがわかった時に、今までレイズの体を動かしていた希望は絶望に変わる。
 
 力を失くした体は軽くフラクタに突き倒され、無様に床を這う。
 元々、体が丈夫ではないところを承知で仕掛けたのだ。無理もない。
 
「ははっ! 残念だったですか? まぁ、逃げたところですぐに見つかるのですがね?」
「やめて!」
 
 レイズの頭を足蹴にフラクタは嘲笑い、リズはレイズをかばうように覆いかぶさった。
 
「これはリズが選んだ! 人を殺した悪いリズは死んでもいい。でも、レイは違う!」

自分の代わりに蹴られているリズは、自分の命よりも片割れのレイズを選んだ。
 
「リズ……!」
 
 回らない頭でレイズは最後のあがきの方法を必死にかき集めた。
 逃げられないのなら、残された手段はひとつだ。
 体が言う事を聞かない。それでも、声は出せる。
 
「く、そ……父上‼」

今までで一番、腹の底から大声を張り上げれば、食堂を後にしようとしていたバリスが振り返った。
 レイズは諦めず、床に這いつくばったまま叫ぶ。
 
「父上! 聞いてください、……一生のお願いがあります!」

 途中で咳き込んでしまいながらもレイズは諦めていなかった。
 女神に祈り、命運をかけた人生最後の賭けに出る。
 
「最後にもう一度、チャンスを下さい! これが失敗したら、俺も死んでもかまいません!」
 
「……ほう?」

 興味がわいたというようにバリスの眉が動いた。
 父親である彼にとって、レイズの命など大した価値はない。
 反応したのだって、ただの暇つぶしに過ぎないのはわかっていた。それでも繋がった!
 
 もうひとつ! レイズはさらに声が裏返ってしまうのも構わずに訴え続けた。
 
「次は必ず成功させます! それで……俺が、コイツを望まれたように動かします! もう二度と、逆らう事はしません! だから……」

情けなく無様に、みっともなくても、憎しみや悲しみも全て投げ出して喉を震わせ叫ぶ。
 
 この最低な命乞いの果てに希望が繋がるのなら、くだらないプライドなんていらない。

レイズは、自分の全てを投げ打って賭けた。
 
 バリスは幼い息子の必死な形相を鼻で笑うと、短く「いいだろう」と答え、右手を上げ去って行った。

それを見ていたフラクタは、不服そうに二人の上から足を退ける。
 
「……気持ちが悪い。たかが、人形の為に媚びて……お前に貴族のプライドもないんですかね?」

そう言ってレイズを見下し、二人を踏んでいた足の裏の汚れをこすり落とし食堂を出ていく。
 
「人形じゃ……ねぇよ。くたばれ、薬中やくちゅうクソ野郎……!」

レイズはフラクタの後ろ姿に不敵に笑い、死ぬほど汚く吐き捨てる。

リズは、すぐにレイズの怪我を治そうと手を取った。
 
「レイ……痛い? 痛いよね?」
 
 その上に影が落ちる。今まで沈黙を貫いていたエリオだ。
 痛々しい傷が残る弟を見下ろす青年は、重い口を開く。
 
「……レイ、私はかつてお前に問いかけたな? 『いつか後悔する時が来たとしても、お前は今と同じような顔をするのか?』と」
 
「……後悔なんて、いま飽きるほどしましたよ」

 レイズはエリオを見上げ、癒しの炎に身をまかせながら、軽口を叩いて微笑んで見せた。
 
「ならばなぜ……」
「俺は、リズの兄です。ケラティスを使います」

レイズは、憔悴しきった顔で力なく笑い、一番信用していた兄へ手を差し出した。
 
「正気なのか? あれはまだ効果が解明されていないんだぞ……お前がこれ以上、苦しむ必要はないだろう……?」
 
「決めたんです」
 
 たった七歳で覚悟を決めた幼い弟を見つめるエリオは、瞳を伏せると鈍色の鍵をレイズの手元に置いた。
 
「……俺の答えは変わりませんよ。リズは俺の片割れなんです。見捨てたりしない」

 そう言って深い息を吐き出せば、心臓の鼓動が聞こえる。
 それに、とレイズは口の端を吊りあげた。
 
「地獄へ行くのに、ひとりは寂しいでしょう?」
 
 自分でそう言って笑いがこみ上げてくる。
 まだ生きているのだ、レイズは自分の心臓の音に集中し、今のリズの顔を見た。
 
「レイ! もう大丈夫、リズが治したよ!」
 
 リズはそれに気付くと、にひっと不器用に笑う。
 覚えたばかりの笑顔はヘタクソで、それでいて人を疑う事を知らず澄んでいる。
 
 この子はきっと、こんな形で生まれなければ幸せになれただろう。
 
 良縁に恵まれ、何不自由なくどこまでも好きな所へ歩いて行けたはず。
 
「もう大丈夫だよ、お前はすごいな」
 
 レイズは、込み上げてきた涙が零れないように息を止めた。
 絶対に泣かないと堪え、息を吐くと、何でもないことのように片割れに告げる。
 
「明日はスコーンを食べよう。お前の好きなジャムとシロップのついたやつ。それと、女神の本の続きを読んでやるよ。最後までな」
 
「ん! 女神さまのお話、楽しみだね!」
 
 レイズがその顔を忘れないように微笑み返せば、リズは嬉しそうに目を輝かせていた。

 
 ――――
 
 深夜、自室のベッドに寝ていたレイズは目を覚ました。
 リズは怪我をしたレイズを気遣って床で眠っており、丸い毛布の塊が規則正しく動いている。

月が雲に隠れ、星のない夜。音をたてないよう静かに部屋を出ていく。
 死にたがりだった少年は、もう戻れない過去に縋ることはしない。
 
 誰もいない薬品庫にて、少年は無色透明な結晶の入った薬の瓶を手に取った。